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イヴァン・イリイチ(イリッチ)『脱学校の社会』

●今なぜイリイチなのか
1971年に出版され、近代が生み出した「学校制度」を痛烈に批判した本書は、現代においてもその輝きを増し続けています。
いじめ、自殺、学級崩壊、小1プロブレム、不登校、体罰、ブラック部活、教員の過重労働、モンスターペアレント、PTA負担・・・。今や、子どもたちの教育を支えて来たとされる公教育という制度は「問題の総合商社」とでもいえる状況にあります。これらの問題に対処すべく、子供の管理や監視の力を強め、クラス運営をより厳しく律する方向で調整する教員も少なくありませんが、その分先生たちの負担は増え、子供のストレスは増大し、親からの苦情も増えます。子供たちののびのびとした主体的な学びも失われてしまうでしょう。もう対処療法では無理だ、制度の抜本的な見直しが必要だ、という声が多く上がっています。そんな時代に大きなヒントを与えてくれる本が、イリイチの『脱学校の社会』です。閉塞感が増す教育制度に、イリイチはどのようにアプローチするのでしょうか。また、彼の論から立ち上がる変人教育の可能性はどのようなものでしょうか。

●脱学校とは?
「子供は学校に所属し、学校で学び、学校でのみ教えられうるということが近代社会においては疑いのない前提となり、望ましく善き事とされているが、その前提について大きな疑問を投げかける」

こうした目的から、イリイチは「脱(非)学校unschooling」を提唱します。一部のブルジョワ階層にみられた「子供時代」概念が、産業(大量生産・大量消費)社会に突入することで大衆化し、「制度と権威の服従者」としての「子供」が形成されていきます。この子供たちは「教育させられるべき存在」として、また産業社会に適合的な主体として、生産され続けることになります。これが「学校制度」の始まりであるとイリイチは喝破します。この近代社会に特徴的な教育制度を解体し(脱−非学校化)、新たな学習のための社会的基盤を構築するための基礎的な論理を提示するのが本書の目的です。

●「価値の制度化」がもたらしたもの
 イリイチが問題とするのは、「価値の制度化」としてまとめられる、人間がその生を自らのものとして受け入れることを拒絶する、彼らの創造性・想像性をテクノクラート(教育専門家)のコントロールによって囲い込まれてしまうような「制度」によるサービスに、子供たちの学習・成長の過程を受け渡してしまった近代社会のあり方です。このような社会では、学びの内容や過程ではなく、子供たちが教育制度上のどの段階(小・中・高・大)を経たのか、どのような学校に所属しているか(公立か私立か、偏差値が高いか低いか、名門か三流か)ということのみにおいて能力が計られます。こうした相対的評価(〇〇に比べて△△)において人間が序列化される社会では、子供たちの尊厳や自己肯定感は失われ、「心理的不能化」を生み出すといいます。「どうせ私なんか」「普通でいいや」などと発する学生たちの多さの原因は、ここにあるのでしょう。逆に、こうした制度上の階梯をうまく登ることのできた数少ない人々は、プライドと全能感を得るに至ります。プライドを持って生きること自体は問題ありませんが、こうした「価値の制度」を引き受けた人々は、得てして相対的評価により他者を自分より低いものとみなしたり、「無能」「バカ」という名のもとに否定し排除してしまうような危険もあります(例えば「愚民思想」)。

●「学習」を可能にする社会
では、イリイチにとっての「学習」とはどのようなものでしょうか。彼は、「教授されること」と「学習すること」の混同こそが問題であると言います。価値が制度化されると、学ぶべきことが占有され、一つの源泉から一方向的に知識や技能が伝達されることになります。従って教員はその伝導者として特別な権力が与えられることになります。しかし、イリイチは次のように言い放ちます。

「ほとんどの学習は偶然に起こる」

彼は、我々が知っていることの大部分は、学校の外で「教師の介在なし」に「話し、考え、愛し、感じ、遊び、呪い、政治をし、働く」ことから学んできたことだと主張します。日々の生活のなかでの豊かな人間関係による相互行為が「学習」を生み出すのであり、それは偶然性を特徴としている。逆に計画的(操作的)な「教え」は、(一部の特殊な環境を除いて)自立的な「学び」には繋がらないといいます。
この自立的でかつ創造的な学びを生み出すために、イリイチは「機会のウェブ(Opportunity Web)」や「学習のウェブ(Learning Web)」を基盤とした社会を構想します。

「『何を学ぶべきか』という問いからではなく、『学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか』という問いから始めなければならない」

こうした社会では、教える人と学ぶ人が相互に入れ替わったり、フラットな関係を築くことができます。あらゆる人々が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークです。そのためには、「知」へのアクセスが開かれていること、「学びたい」人と「教えたい」人のマッチングが可能な技術が必要とされます。また、こうした「学習ネットワーク」を可能にする基盤を作るために新たな教育専門家が必要になるとも。

●求められる新たな社会
イリイチは、近代社会を「操作的制度」によって構築されたものと考えます。つまり、その高圧的な性質により、「あるべき人間」を生み出すための操作が作動し続ける社会です。この場合のあるべき人間とは、生産活動と消費活動を従順に行ってくれる社会に適合的な人間です。それに対し、これからの社会は相互親和的(convivial)な制度設計が必要だと説きます。「人々の間、および人々とその環境の間での自律的で創造的な交流」を可能とする社会です。他者との交流、世界や環境との交流といった相互の関係性の中にこそ、「個人の自由」が潜んでいるというのがイリイチの主張です。

●イリイチの脱学校論と変人教育
上記がイリイチの主張の骨子です。では、変人類学研究所として、何を学ぶことができたでしょうか。
本研究所では、誰もが持っている常識にとらわれない発想力や創造性を発揮する、周縁化されやすい存在として変人を捉えています。変人は社会的抑圧から生み出される現象でもあります。「制度化された価値をそのまま受け入れず、自らの生を生きようと決意した人々」と言いかえることができるでしょう。また、全てを相対的評価によってランクづけしたがる近代制度をすり抜け、自身の独創性を(多くの場合無意識的に)追求するような絶対的評価へと振り向けることができた人々が変人ともいえます。その意味で、イリイチの説く脱学校論は、変人を生み出すための新たな制度や環境(変人環境=henvironment)を構築していくために重要な示唆を与えてくれます。
一方で、彼の構想するラーニング・ウェブや学習ネットワーク社会は、IT技術の急速な進化やSNSをはじめとするコミュニケーションツールの充実によって、その基盤は十分に確立されています。インターネットを利用して世界中の教育機関や研究所の成果や、個人研究者の業績にアクセスすることが可能となり、「知識・技術」の占有状態からは解放されたかにみえます。つまり、変人教育のための基盤ができているのです。しかし、世界中に広がったネットワークを駆使し、創造性を拡張していく子どもたちはごく少数にとどまり、新たな価値を生み出そうと冒険に出る人々も限られています。教育制度はあいも変わらず画一的な知識の伝授に明け暮れ、集団が一律同じ速度で教授されていく護送船団方式も強固に健在です。
なぜこのようなことが起きるのでしょう。簡単に言ってしまえば、制度が技術に追いついていないのかもしれません。ICT教育の推進も、教科書外の世界の広がりに対するアクティブ・ラーニングも、まだその端緒についたばかりです。また、誰もが世界の最新の地殻変動に関する情報へのアクセス権を持っていたとしても、アクセスに至る意識や方法・手段を導く「教育専門家」(イリイチ)が不在なのかもしれません。身近に豊富な知識や技能を持った独創的な人々(変人たち)がたくさんいても、日常的な社会的ネットワークを失った現代社会では、地縁をもとにした「教え=学び」の関係性を構築することが難しいという側面もあるでしょう。

●イリイチの「脱学校論」を超えて
イリイチは「学校を潰せ」とはいっていません。近代社会が構築してきた「価値の制度化」を問題にしているのであって、その典型例を「教育=学校制度」に見出しているのです。では、制度そのものを解体し、新たに構築されたフラットなネットワークに全てを投げ出せばいいのかというと、私は少し疑問に感じます。イリイチも認めているように、ネットワークを維持するためにはまた「制度」が必要となり、そこには制度を構築したり維持したりするテクノクラート(専門技術者)が必要となります。制度は常に固定化され得るし、同種の抑圧構造が生み出される可能性も秘めています。例えば、某巨大掲示板サイトでは、他者に対する想像力の欠けた誹謗中傷が生産され続けており、かつ発言の多様性を失わせる同調圧力が働いているという現実もあります。
一方で、学校における教科教育や友人との関係がきっかけとなり、新しい動きが出てくるということもあるでしょう。大枠として本書の主張する「近代制度によって我々は操作されている」という構造を認めることはできますが(ラディカルな近代批判の名著といえます)、では我々はどのようにこの不透明な時代を生き抜くのかという部分に関しては、あまり具体的なイメージが湧きにくいというのが正直な感想です。もちろん、これは時代的制約によるものです。

●共育社会に向けて
イリイチを題材としたワークショップを行った際に、ある参加者が言いました。

「制度上従っているようにみえても、内心では全く別の角度から教育内容や教員の人となり、友人たちの性質を捉え、豊かな発想を育んでいることもある。それは個人の内面で脱学校化が成功していると言えないだろうか」

我々は制度があるからこそ、そこから抜け出そうとしたり、反抗したり、発想をズラしたり、あえて乗ってみたりすることができるのかもしれません。制度に縛られない自立性と独創性は、制度の内部においても育てていくことができる、つまり、制度への無意識的な従属が問題なのであり、意識的な制度の相対化こそが重要なのでしょう。それには、イリイチのいう「知の占有」状態を脱し、制度を境界から捉える大局的な発想と、多様なものの見方を身に付けることが必要となります。そのためには、常に拡大し続ける有為な情報・技術へのアクセスを可能にするような学びを(子供だろうが大人だろうが)誰もが行っていくような、「学ぶ人々」によって作り上げられる学習社会(「共育社会」)を構築して行くことが大切だと考えます。また、制度そのものを、「ズレた発想」を組み入れることを可能とする、包摂的な仕組みへと組み替えて行くことも大切でしょう。社会全体の「変差値」を高めていくためには、まずもって「共育」と「包摂」がキーワードとなるかもしれません。

文責:所長