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変人類学論考

《傷つけば本物》という迷信文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

「中高大学生」は全体性の圧力に疲弊している?

「僕は嫌だ」

通勤中の私の耳に響いた叫び、2015年にデビューして以来、王道のアイドル路線とは別の道を歩んでいる(歩まされている)欅坂46の4thシングル「不協和音」(*1)のサビ冒頭の歌詞だ。彼女たちが歌うのは同調圧力に対する叛逆の意思である。

「みんな揃って 同じ意見だけではおかしいだろう 意思を貫け! ここで主張を曲げたら 生きてる価値ない」

ストレートに、みんな一緒だよね的価値観を否定しにかかっている。「意思を貫け!」という号令は誰に向けたものなのだろうか。どういった世代や層、属性の人々に届くのだろうか。

日本のアイドルの先行イメージから推測するなら、「アイドル好き」の大人たち、同世代の若者が相手として想定される。なかでも、同世代の若者は、等身大のメッセージとして自分の隣から叫ばれているような印象を持って受け取っているのかもしれない。逆の発想で言えば、同世代の若者たちはこの歌の歌詞にあるような色々の感情をすでに抱いていて、それを「代弁する」役割を果たしている、とも考えられる。

欅坂46と同年代の若者となると、高校生か大学生ということになる。ここに中学生も含めた「中高大学生」を本論における「同世代の若者」と定義する。

「中高大学生」は孤独になりつつある?

「君は君らしくやりたいことをやるだけさ One of themに成り下がるな ここにいる人の数だけ道はある」

彼女たちはかつて、1stシングル「サイレントマジョリティー」(*2)でもこのように歌っていた(歌わされていた)。どちらでも共通して、同じであることへの批判(ほぼ批難)が歌われている。しかし、その様相は微妙に変容を遂げているようだ。

1stシングルでは、対立の対象が明確に示されている。

「君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるな 初めから そうあきらめてしまったら 僕らは何のために生まれたのか?」

この部分にも登場している「大人」がそれである。「大人」を対立の対象とし、「誰かと違うことに 何をためらうのだろう」や「その目は死んでいる」、「見栄やプライドの鎖に繋がれたような つまらない大人」などの言葉を浴びせている。

それに対し、4thシングルでは明確に「大人」などの対立項が登場することはない。そして、「不協和音」や「見て見ぬ振りしなきゃ仲間外れか」、「僕を倒してから行けよ!」や「僕を抹殺してから行け!」など、直線上の他者に強く向けられていた関心が横並びの他者に強く向けられるようになっている。もはや「大人」よりも「君」のほうがよっぽど脅威なのである。だからこそ、「君」が良くても「僕は嫌だ」ということになる。

「不協和音」と一緒に収録されている「エキセントリック」(*3)には、「君」たちに翻弄されて「変わり者」であり続けることを決意した「僕」の宣誓が描かれている。「I am eccentric 変わり者でいい 理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ」「普通なんかごめんだ 僕は僕でいさせてくれ」、「僕」は周囲から「変わり者」と評価されることによって自己の存立を獲得する。しかし、同時に「僕」は「生きたいように生きる」ために「世間の声に耳を塞い」だり、「心閉ざして交わらない」ことをせざるを得ない状況に追い込まれていく。

「自由なんてそんなもの」?

「エキセントリック」では「愛なんて縁を切る」や「自由なんてそんなもの」といった言葉が繰り返される。自由でいるためには何かを失わなくてはならないという前提が、いつの間にか刷り込まれているのである。自由である代わりに…我々は何かを失わなくてはいけないのだろうか。

6thシングル「ガラスを割れ!」(*4)でもこの前提は共有され、より強固なメッセージを持つことになる。「おまえはもっと自由でいい 騒げ! 邪魔するもの ぶち壊せ! 夢見るなら愚かになれ 傷つかなくちゃ本物じゃないよ」、もはや闘争心剥き出しで、武力行使に至る勢いである。自由や権利を主張した成れの果てに、暴力性ばかり増強させていく活動や団体は今までもよくあった。そうなってしまっては、「確かに言いたいことは分かるけど、やり方がね」と煙たがられてお終いだ。

「愛の鎖引きちぎれよ 歯向かうなら背中向けるな 温もりなんかどうだっていい」、自由が愛とトレードオフになったり、傷つくこととセットで実現されるように語られたりするのは今に始まったことでは無い。しかし、だからこそ、いつまでたってもそのままで良いのかという疑問が生じる。

《愛とは不自由なものである》というテーゼに対して、自由を得るために愛を切り捨てるのであれば、それはアンチテーゼを提案したに過ぎない。テーゼが前提としているパラダイムから脱却しないことには、真の意味での抵抗は成功していない。こういった楽曲が世の中に生み出されるということは、それを世の中が要請している、という捉え方もできる。欅坂46が歌ったという事実であり、秋元康が作詞したという事実であり、我々《社会》がそうさせたという事実でもあるのだ。我々は、叛逆の意思を示しても結局は自由をとりまく古典的な二項対立の枠の中にいる、ということに気づいていない。

「エキセントリック」であれば必ず逆境に直面し、逆境に直面しても頑張ることが素晴らしいことだという美談。「傷つかなくちゃ本物じゃない」という認識から我々が抜け出すためには何が必要なのだろうか。この問いに向き合い続けることで、我々は次のパラダイムへの移行を遂げる。

*1 2017年4月5日にSony Recordsより発売された『不協和音』に収録されている楽曲
*2 2016年4月6日にSony Recordsより発売された『サイレントマジョリティー』に収録されている楽曲
*3 *1と同じ『不協和音』に収録されている楽曲
*4 2018年3月7日にSony Recordsより発売された『ガラスを割れ!』に収録されている楽曲