世間を賑す変人,世間を彩る変人,世間に物議を醸す変人,変人は良くスポットライトを浴びる。当の本人が自分のことを変人だと思っているかに限らず,世間は圧倒的少数派の人間に変人のスポットライトを当てる。《ギリギリ》,《際どい》,《賛否両論》の要素を特定の人物に対して見出すことによって,凡人は様々なカタルシスを得るのである。変人と呼ばれる人物は,周縁要素を付着させられ,変人に仕立て上げられ,凡人によって消費されるのである。
この変人について考えたい。現象としての変人,周縁要素を付着させられた人間,誰でもなりうる存在としての変人について,凡人との比較を通して考えていきたい。考えていくうえでは,変人類学研究所が提唱している「変人3原則」をその出発点に採用する。(*1)
変人類学研究所は,「変人類(homohendesu)」を定義する上で,3つの原則を掲げている。
変わった 「変わった」ものの見方をして発想する(開放感)
変わらない 「変わらない」自分らしい価値観によって判断する(有能感)
変えたい 「変えたい」という情熱と好奇心をもって行動する(使命感)
原則1によれば,変人は「「変わった」ものの見方をして発想する」。安定して受容されるようになった知識や思慮分別は,《常識》と呼ばれて凡人たちの大前提をなす。その《常識》とのあいだに差異が生じている知識や思慮分別に対して,人は変わっているという評価を下す。その「変わった」知識や思慮分別にもとづいてものごとを見るまなざしは,「「変わった」ものの見方」ということになる。周囲と違うまなざしを手に入れた凡人は,凡地から開放的な空間へと飛び出るのである。この体験をきっかけに,凡人は変人への変容のプロセスに身を置くことになる。
凡地からの一時的な開放によって,凡人は変人への移行可能状態に入る。今まで自分がいた凡地,そこで連綿と再生産され続けている《常識》から自分の身を引き離すことによって,《凡人でない自分》の可能性を自覚する。この段階で凡人が得る気づきは,生得的に誰もが持っている変人気質への回帰であり,《そうだったのか》とでも言いたくなるような不思議な感覚をともなう。しかし,この,変人への移行可能状態に到達した凡人の大半は,すぐさま自らの手で自分を凡地へと返してしまう。なぜなら,変人への移行可能状態に到達した凡人は,そうでない凡人たちによる弾圧,吊し上げを食らうからである。凡地から飛び出るために得た「「変わった」ものの見方」という旅券は,飛び出た瞬間から排除の対象をマーキングするためのタグに成り代わるのである。人と違うということを,それ自体が罪深いことのように言われ,《どう違うのか》ということに目を向けてもらえることなく,凡地へと帰っていく。それでも幾らかの凡人は,その劣悪な境遇に屈することなく,自分自身の「「変わった」ものの見方」を強化し,確立させていく。変わっていることを承認されたり称賛されたりする機会に恵まれ,環境要因的な運の良さによって偶然的に生きながらえるのである。そうして次第に,「「変わらない」自分らしい価値観」の輪郭を得て,《これでいいんだ》という有能感を糧に生きるようになる。これが原則2の状態であり,凡人から変人への移行を完遂したことになる。
凡人から変人への移行を無事に終えた変人は,そこからしばらく「「変わらない」自分らしい価値観」による有能感を満喫する。凡地を眺めては凡人であった時代に思いを馳せ,凡人を見ては移行可能状態の時期に受けてきた弾圧の数々を思い出す。それでも屈することなく確立された変人としての自分,その自分を自己承認し,自己肯定し,よりいっそう変人である自分を強め,深めていく。自己承認や自己肯定が恒常的に行えるようなサイクルに入ると,変人は,ふとしたときに思いがけない使命感に駆られることがある。それが原則3の「「変えたい」という情熱と好奇心をもって行動する」ことを志向し始めた状態の変人である。承認や肯定のサイクルによって強化された自分の言動に効力を感じるようになると,変人はこの効力をもってして社会に変化をもたらしたくなる。さらに,《この境地に達した自分だからこそ成しえることなのではないか》という気持ちと結びつくようになり,強い使命感を感じるのである。
以上,変人類学研究所が提唱している3つの原則をもとに,凡人が変人に変化していく過程を辿った。こうして変人の全体を見渡すと,変人がその人生において,常に自分を主語とした生活を送っていることに気づく。原則1は,《自分が》《常識》に迎合するその他大勢とは決定的に違うということを自覚することによって成立する。原則2は,《自分が》自分の選択において「変わらない」ことを意識的に確立させる必要がある。原則3では,使命を持った《自分が》変えていかなくてはならないという認識によって成立する。変人は徹底して自分を譲らない。自分の人生において他者が主語になるようなことは無く,常に主体性を持って生きているのである。
この,《主語が常に自分である》という特徴によって,変人は批判的,自覚的に日々を生きている。批判的であるとは,すなわち,自分以外の存在に対して常に自分の意見や主張を持ち合わせているということである。何でもかんでも非難したり否定したりする,という意味ではない。受け入れるにせよ,拒絶するにせよ,何かしらの考えをもってその意思決定をおこなっているということである。そして,自覚的であるとは,常に自分の意思を経由して物事を為そうとする,ということである。たとえ他人任せで物事が進む場合であっても,他人任せで進めるということについて意思決定をしている。それゆえ,(偶発的,突然変異的に生じた問題を除けば)どんな言動に対しても何かしらの理由を持っている。「お前のオールを任せるな」(*2)とわざわざ言われなくとも,変人は常に自分の手で,批判的,自覚的に自分の人生を歩んでいるのである。
*1 変人類学研究所HPより,「変人3原則」(https://henjinruigaku-labo.org/report/変人3原則.html (2018年5月30日アクセス))
*2 日本の男性アイドルグループであるTOKIOが2006年に発表した「宙船」(2006年8月, ユニバーサルミュージック)のなかのフレーズ。