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〜考えること⑨

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「藤田美保さん」
〜考えること⑨インタビュアー:松下光

元先生インタビュー10人目の更新になります(^^)
藤田さんは色んなメディアで
インタビューを受けているため、
普段のインタビューではお聞きできないような、
細かなところまで、
ご紹介したいと思います(^^)!!

前半は、
学校の先生になる前までの
大学時代を中心にお伝えしていきます!

常に自分との対話をし続けている
藤田さんの行動力にの源にせまります!

NPO法人箕面こどもの森学園(大阪府箕面市)|箕面こどもの森学園(大阪府箕面市)
こちらは大阪府箕面市にあるNPO法人箕面こどもの森学園のホームページです。こどもの森学園とは子ども一人ひとりの個性を尊重し、民主的に生きる市民を育むことを目的としたオルタナティブスクール(小中学校)です。小学1年生~中学3年生まで、約60名の子どもたちが学んでいます。
kodomono-mori.com

紆余曲折の進路選択


箕面こどもの森学園入り口

どうして教員になろうと思ったんですか??

実は教員にだけは絶対なりたくないと思っていたんです。
教員なんて同じことの繰り返しで
何が面白いのかさっぱり
分からないなあと思っていたんです。

えええ。

そしたらどうして教職をとることになったんですか??

もともと大学には、
アジアの発展途上国に行って
教育プログラムを開発するような
そういうことをやりたいと思って入学したんですね。

そう思ったのも、
高校生のときに天安門事件というのがあって、
その時に
日本の戦後処理みたいなのができてないんじゃないか
と考えたのがきっかけだったんです。

日本人としてアジア諸国に対して
自分は関係ないというような生き方ではなくて
貢献するような生き方がしたいと思っていました。

どういう貢献ができるやろうと思った時に、
そのときは短絡的やったと思うんですけれども
医者をやればいいじゃないかと思ったんです。

でも偏差値が全然足らなくて、浪人はしたくないし
ちょっとそれは厳しいなあと。

じゃあ人は命があるっていう状態になった時に
次に何が大事かなと思ったら、
「人として生きる」って事だと思ったんですね。

今度は、「人として生きる」ってことはどういうことかな
と考えたときに、
「人が人になっていくこと」だなって思ったんですね。

これもまあ結構短絡的だったのですけど、
そのときに「教育」かなと思ったんですよね。

だから私はアジアの発展途上国に行って
教育プログラムを開発するような
そういうことをやりたいと思って、入学しました。

大学に入学する前から、紆余曲折があったんですね。
「戦後処理がしたい」という想いが生まれたきっかけってわかりますか?

たぶん、小学生ぐらいからそういうのを好きで
結構第二次世界大戦マニアみたいな感じだったんですよね。

たまたま学校で読んでいい、唯一のマンガとして
「はだしのゲン」があったんです。

そこで”学校で漫画が読めるなんて!”と思って
はだしのゲンは全部読んで。

すごいなんかね
今となっては考えられないくらいの量の
本を読んでいたんですね。

ジャンル問わず読む中でも、
そういう第二次世界対戦系の本が引っかかったんです。

人間としてそれはやってはいけないことだよね、とか
南京大虐殺と沖縄戦のこととか
がまの中でどういうことがあったかっていうことを
だいたい知ってたんです。小学校のあいだに。

誰から何を言われることもなく、
そういうのが残っていっていたんです、自分の中で。

なので天安門事件が出た時に
そういう昔から思ってきたことが
サーって繋がっていったんですね。

他人事だと思えなかったんですよね、
他人事って思っているのが嫌だなって思ったんです。

紆余曲折の大学生活


箕面こどもの森学園の階段に貼ってあった掲示物

大学に入学されてからは
どんな学生生活だったんですか?

すごいびっくりしたんですけど、いざ入学してみたら
そういう教育プログラム開発みたいな科が
なかったんですよ。

そういうことちゃんと調べずに
大学に行ってしまったっていうところがあってね。笑

自分が何やっていいかわからないし、
どうしようかなあって
落ち込んでいた時があったんですね。

その時たまたま記者クラブでスクラップ作りのバイト
というのをしていたんですけど、
そこにいた記者の方と話す機会があって、
自分の悩みを伝えたんですね。

田舎から出てきて、親に仕送りもしてもらっているのに、
こんなことで、全然できなくて…みたいなことを言ったら

「そう思うんだったら学外でもっと探せばいいよ。
アムネスティとかね、
東京はいろいろあるんだから行ってごらん。」

って言ってもらったんですよね。

「行ってみて嫌なものはやめたらいいんだよ。
行ってやめて行ってやめてを繰り返してる間に
これかなというのが見つかるから。」

と言われてそうか!と思ったんです。

そこからどんな変化があったんですか??

当時ネットもまだない時代だったんですけど、
バイト先の影響もあって、
わたしも新聞をスクラップしていたんですね。

その記事の中で
バングラデシュ人を支援する団体が、
当時住んでた寮の近くにあることを知って
行ってみたんですよね。

それがきっかけでいろんなツナガリが出来て、
バングラデシュに行こう!となったんです。

女性の寿命も短いし、イスラム教なんで権利も低かったり、
識字率も低いんですね。
教育プログラムの開発にはもってこいだったんです。

バングラデシュではどうでしたか?

“あ、私はここに骨を埋めるんだ”
って思いましたね。

あるNGOのスタディーツアーで行ったんですけど。
帰ってきてからも
ボランティアでいろんな活動にも参加したり、
東京外語大に潜り込んで、
ベンガル語を学んだりもしましたね。

その時もやっぱり、
私はすごく教員になりたかったっていうよりも
日本の戦後処理がしたかったんですね。

そのために自分ができることをしたくて、
教育プログラムを考えたかったんです。

そのためにベンガル語も覚えて、バイトでお金も貯めて、
もう一回、バングラデシュに2ヶ月間行きました。

そこでまた、紆余曲折へのきっかけがあったんですね


廊下に設置された魅力的すぎるお道具箱

そうなんです。

すごく仲良くなったバングラの女性とある日、
夕日を見ながらしゃべるみたいなことがあって

その人は向こうでいうエリートだったのですけど

向こうで女性のエリートっていったら
だいたいお医者さんかエンジニアと結婚して家庭に入るっていうのが
お決まりのパターンなんですね

でも彼女はまだ独身やって、NGO で働いていて。

彼女が
「自分の車は自分で運動したい。ドライバーは必要ない」
みたいことを言っていたんですね。

そのことを言われたときになんか
えー!と思って。

「援助」って何なのかっていうのが
突然わからなくなってしまったんですね。

私はなぜ戦後処理をしなければ!とか
発展途上国の教育プログラムを考えなければ、
っていうことで来ていたんだろうって
すごく分からなくなってしまったんですね。

それでまた同じようにドーンと沈んだ状態になって。

何をしたらいいのかわからなくなって日本に戻ってきて、
“さあどうしましょう”みたいな感じに
またなっていったんですね。

当時やっていた記者クラブでのバイトの影響もあって、
ジャーナリストになりたいと思ったこともあるんです。

でもそれも、働いている中で、
自分はメディアの世界の中では
生きづらいだろうなと思うときがあって。

そうなった時に、
海外で教育プログラムを開発したかったのも消えて、
メディアに行きたいっていうのも消えて、
どうしようもなくなってしまったんですよね。

どうしよう、どうしようって言っていたら、
“そろそろ採用試験を受けないと”とか、
“採用試験の勉強をしないと”
“教員になりたい”っていうのばっかり
まわりのみんなが言ってるんですよね。

子供は好きだし、
子供と一緒にいることができてお金もらえるんだから
まあ採用試験は受けたらいいかなってことで
受けたんですね。

それでたまたま採用試験受かってたまたま教員になってしまったんです。

紆余曲折の教員生活

すでに波乱万丈な予感がするのですが、
教員生活はどんなふうにスタートしたんですか?

この学校に挨拶に行ってくださいって言われて
行くんですね、3月末くらいに。

行った学校の職員室に、
ぱっ!と足を踏み入れた瞬間に目に入ったのが…

すでに波乱万丈な予感がするのですが、
教員生活はどんなふうにスタートしたんですか?

この学校に挨拶行ってください
って言われて行くんですね、三月末ぐらいに。

行った学校の職員室にぱっと
一足踏み入れた時瞬間に目に入ったのが、
職員室の一番目立つところに
“○○っ子の約束”っていうのが貼ってあったんですね。

それがなんか生活の決まりみたいなので、

名札をつけましょう、
登下校を守りましょう、
チャイムを守りましょう、
学校にいらないものを持ってこないようにしましょう、
廊下は走らないようにしましょう、

って書いてあったんですよ

それ見た瞬間に、ああ、しまったぁ…。って思って。

ここは私がくるべき場所じゃなかったなぁ…と思いました。

貼っているものが景色になっているから、
そういうのを誰も気にしていなかったとは思うんですよ。

やけど、当時の私にしたら
こんな一番目立つところに
こんなしょうもないことも書いて貼って
平気でいられるなんて、

たぶん私とは絶対に合わないって思ってしまったんですね。

スタートどころか、
スタートする前から、厳しかったんですね

そうですね。しまったぁ…っていう感じでした。

退職されるまでのエピソードを教えてください。


2015年、箕面こどもの森学園がESD(持続可能な開発のための教育)
をする学校として、UNESCOからユネスコスクールとして認められました。

まあことごとく合わないわけなんですよね。
なぜやるのか意味がわからないことが
たくさんあったんですね。

何でですかって聞いたら、

教科書に載っているからとか、
そういうことになっているからとか、
学年足並みをそろえて欲しいからとか。
何かよくわからないけど「決まっているから」
っていうのがとにかく理由だったんですよね。

システムになっているんですよ。すごく大きな。
そのシステムの歯車の一つを
こなす以外にできないっていうところがあって。

そういうのがいくつかあったけれど、
でも不思議と慣れていくんです。

なんでかはわからないけど、冬になったら皆、
体育で縄跳びをするんですね。

私も体育で縄跳びをすることにしたんです。
縄跳びカードもこれ藤田さんのクラスの分、
印刷しといたからって言われて、もらったりもして。

その体育の授業中に縄跳びをしていたとき、
いきなり私のところに、
手のひらに虫をのせて見せにきた子がいたんです。

「先生、ぼくの縄が虫に当たって、虫が死にそう」と言って。

でも、私にとっては名前も知らない小さな虫で、
取るに足らないものに見えたんです。

そこで、
「でも、今縄跳びの時間だから、
自分のところに戻って縄跳び飛んでくれる」と言うと、
その子は、だまって自分の場所に戻って、
縄跳びを始めたんです。

その時間はそれで終わったんですけど。
縄跳びを飛び終わって、何気なく通ったところに、
たまたまその子がいたんですね。

何してるの?って聞いたら、

「さっきの虫が死んだから、虫のお墓を作ってる」
と言われて。

その時に、すごくびっくりしたんですよね。
忙しさとか、「こうするんだ」って決められているものを
こなすのが大変で、それが当たり前になっていく。

こどもの一人一人が本当に何を考えて、
何を思っているっていうことよりも、
こなすっていうことに
違和感がなくなっていってしまっていたんですよね。

そのことだけじゃなくて、いろんなことであって
“あっこれはもう続けられないな”っていう風に
なっていったんです。

その後はどうされたんですか??


2017年 立ち上げメンバーとして、今までの歩みの振り返り 「共に歩んでくれる仲間の存在と、
たくさんの人の支えがあり、ここまでやってこれたと思います。」と藤田さん

公立学校のやり方がこれじゃないなあ
とおもっていたんです。

なので、自分がやりたいことをやるんだ
っていうので割と勝手な事をやっていたんです。

今じゃ信じられないことばっかりやったりしていましたね。

当時の子とは今も交流があって、
めっちゃ面白かったって言ってくれるんですけど。

でもふとやりながら、
これでもないなって思ったんですね。どっかで。

目の前のことが違うから思いつきでやっていたことと、
そうじゃなくって、そもそも学びとは何で、
そもそもどういうことがいいのかっていうことを
考えた上でやることとは
ちょっと違うんだろうなって思ってたんです。

やりながら違和感はありました。

やめたきっかけはなんでしたか?

どうしようかな、どうしようかな?
これじゃない、これじゃない。

って、目の前のことでもないし、
自分が好き勝手思いつきでやったことでもない。
八方ふさがりみたいに感じてた時に、
ある手紙が来てね。

記者クラブでバイトしていた時に
仲良くなった女性の記者の方がいて。

彼女から「”毎日新聞の記者辞めて、コロンビア大学の大学院行きます。”」っていう内容だったんです。

それを見たときに人生で初めて
人を羨ましいって思ったというか、
劣等感ってこういうのを言うんやなって思ったんですね。

と、同時に
“人のことをうらやんで生きる人生は
終わりにしなきゃいけない”
ってすごく強く思ったんですね。

“この人にできて
私にできないことはないんじゃないか”、って。

こういう目の前の教育でも、
私が思い付きでやった教育でもないんだ!と思って
子どもたちの自主性を尊重する
教育をやる学校をつくりたい!って思ったんです。

そこから、大学院に行って、
偶然の出逢いがあって、
ここの学校をつくることになっていったんですね。

たくさんの紆余曲折を経て、現在

今年の認定NPO法人箕面こどもの森学園の新年会の写真

働くってどういうことだと思いますか?

うーん…。
働くっていう感覚は、あんまりないんですけど。

自分がやりたいことをやれたらいいかなって思っていて、
そこにお金っていうものがそんなにたくさんじゃなくても、
ぼちぼち生活できるだけついてくれればいっかな
って思っているんですよね。

だから今もこう仕事だと思ってないっていうか、
やりたいからやっているだけで、
生きていることと変わらないので。

苦しそうに働いている人たちをみてどう感じますか??

そういう人をみてよく思うのは、
なんか分からないんですよね。

うーん。

もっと好きにしたらいいのになあって。

こうだからできないとか、
やったことないからできないとか、
できない理由を探すけど

できない理由とおんなじだけ、
できる理由もあるはずだから、
それを探したらいいんじゃないんかなって思ってて。

私、「できるからやってるんでしょ?」
って言われることもあるんですけど、
いやいやそうじゃないよって思うんですね。

それができるようにしてきているだけに過ぎないので。

でも、自分は恵まれてるんだなっていうのは思います。
そういうふうに考えられるって言うのは、
親とか、周りの人に大事にされて
育っているからだと思うんですね。

基盤があると言うか。
本当にダメになったら帰る場所があるっていう、
そういうことへの感謝の気持ちはすごくあります。

先生になる上で大切だなと思う事はありますか?

自分であるということかなと思っていて。

先生になる前に自分であるっていうことを
常に思っていることだと思います。

子どもたちの前に先生としてではなくて
自分として立つっていうのが、教員になってからも、
大事なんじゃないかなと思ってるんですね。

子ども達にも
私は私だからっていうことをよく言っていました。

私の言うことが全て正しいとは限らないから、
一人の人として、あなた達も一人の人で、
そういう関係でしかないよと。

こっちが教えるとか、
ちゃんとさせるとかっていうのでもないと思うんですね。

さいごに

大学生にメッセージをお願いします。

自分の中にあるもの、自分の内側にある物
っていうのを大切にして欲しいなって思います。

視覚もそうなってるし
どうしても人って外ばっかりを見てしまうと思うんですよ。

自然に視覚優位に生きるから、
外に探しに行こうとするんですけれども。

そうじゃなくって。

自分の中に探すと言うか、
答えはいつも自分の中にあると思うんです。

そういう自分の内側を見つめて欲しいなって思います。

ありがとうございました!!