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変人類学論考

凡―固/変―動(第2部)文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

制度をもたらす「動いている人間」

変人が批判的,自覚的に自分の人生を歩んでいるとき,同じ時間,空間において凡人は無批判的,無自覚的にその人生を消耗している。自分以外の誰かが作り上げた制度,文化,信条などを,それが《常識》であるといわれる限り無批判に受け入れ,それらによって自分の言動が決定されてしまっていることについても無自覚なまま生きているのである。《常識》が《常識》でなくなった瞬間でさえ,《常識だったもの》を否定し拒絶することを,新たな《常識》によって仕向けられていることに気づかない。凡地の構成員として決してはみ出ないために,凡人がその進化の過程で身につけたスキルは《意思決定のアウトソーシング》である。凡地の中枢部には凡人全員の意思決定が委託されており,一度の信号で全員が同じ動きをとる。
このような状態の凡人,まっとうな凡人は「固定された人間(fixed-man)」とも言い表せる。一方で,凡地を飛び出し,自らの意思によって生きている変人については「動いている人間(stirring-man)」と言い表せる。固定,動,この二つのメタファを導入することによって,凡人と変人が周期的に離反し,和合し,また離反する社会のありようについて部分的に解釈を深めていく。
先ほども指摘した通り,「固定された人間」である凡人は,所属する凡地の中央から延びる触手に自身を接続し,意思決定を委託している。それはまるで,現代の生活の大部分を支える電子機器たちが電源の供給元から延びるケーブルから離れられないのと同じような(近年一般的になりつつある非接触型の電力供給も,外見が操作されたに過ぎない),胎内で胎児が臍帯を母体と接続していないと生きていられないのと同じような光景である。しかし,電子機器や胎児が,母体に対して《動力》を期待しているのに対して,凡人は意思決定を期待する。つまり,ケーブルや臍帯よりも強固で不可欠な存在としてその触手は機能している。触手は意思決定を保証する代わりに,凡人たちを凡地のなかに固定する。
自ら触手を切り離し,固定された生活に別れを告げた凡人は,1部で論じたようなプロセスを経て変人となる。変人は解放され,「動いている人間」としての生活を手に入れる。
自分を繋ぎとめるものは何もなくなり,凡人のときのような固定的安定感は得られなくなったが,同時に自由を手に入れることができた。獲得した自由を最大限に発揮して,変人は凡地に無い制度や文化,信条を次々に生み出していく。全ては自分のため,自分が自分でいられるため,そのモチベーションだけで変人の生成変化は加速していくのである。
ここで「変人3原則」を思い出すと,原則3に「「変えたい」という情熱と好奇心」が存在していたことに気づく。変人は,「動いている人間」として一通り生成変化を繰り返すと,その変化の効力を自分以外の存在にももたらしたいという衝動に駆られる。そしてその気持ちが強まると,それは使命感へと切り替わるのである。この使命感への切り替わりが,凡地の飽和現象と同時期に起こった場合,その変人と凡地が急接近し,次の凡地への移住計画を始めることになる。
凡地の飽和現象は様々な要因によって生じる。例えば,その凡地を統制している制度が,その設計上許容できる容量を超える人間に囲まれた場合,触手への接続待ちの凡人が増え,不平不満が鬱積する。あるいは推奨されている文化への飽き,よしとされている信条の破たんなど,固定的安定感は一定期間を過ぎると崩壊の綻びを必ず見せるのである。その際に,使命感を燃やした変人がタイミングよく現れると,凡地の中央で意思決定をつかさどる器官(凡地を独裁的に束ねる凡人で,たいていの場合,かつて変人への移行可能状態を経験して挫折し,屈曲した凡人である)はその変人との接続を試みる。変人も自分の変化の効力を試行する格好の場を得たかたちとなり,互恵的な関係性でもって凡地全体の移住計画が進められることになる。
凡地全体の移住計画は,変人の圧倒的なリードによって進む。変人を排斥していた凡人たちも,自分が接続している器官の御墨付きとなると,変人を熱狂的に崇拝する。変人を中央に据えたカーニヴァルは連日連夜行われ,新たな制度,文化,信条への移行の機運が高まっていく。変人は自分自身が凡地変革の担い手であることに一定の満足を得つつ,基本的なスタンスは決して曲げない。主語は常に自分であり,凡地の変革をもたらすことはあっても,凡地に取り込まれるようなことはない。このまま新天地移行後の凡地に癒着し,凡地の中央器官になれば,自分の効力を永遠に承認される生活を手に入れられるかもしれない,その誘惑に何度も苛まれながらも(一定数の変人はここで凡地に癒着する),最終的に変人は凡地から再び離反する。新天地に移行してからもその熱が冷め切らないカーニヴァル,その中心にいたはずの変人は,自分に似た彫像をそこに置いてその場から既に去っているのである。
嵐の如く訪れて去っていった変人に先導され,凡人はその居住区を新天地に移した。新しい凡地では,中央器官が変人彫像の威を借りて,新たな制度,文化,信条でもって凡人を束ねる。凡人は様々な環境変化によって,マンネリ化していた生活リズムに爽やかな風が吹いた感覚を得る。凡地が飽和していたときの息苦しさや憂鬱さは解消され,凡人の顔には笑顔が戻る。
しかし,ここで見逃してはならないのは,凡地における凡人と中央器官の関係性に変化が生じていないということである。嬉々として新しい凡地を闊歩する凡人の身体は,旧態依然として中央器官と接続されており,基本的な権力構造等は何も変わっていない。
さらに,凡人の顔に笑顔が戻るためには,凡地が排斥し続けた変人の存在が不可欠であることも見逃せない。凡人は,凡地に対する不平不満を口にすることは出来ても,新しい制度,文化,信条の類を創造することはできない。今が良くないことを言えても,明日がどう変容させられるかについて語る文法は持ちえない。だから,変人にそれをアウトソーシングするのである。排斥していた変人を凡人の都合で再度包摂し,要素的に必要なものを吸い取る。そうやって変人に助けられ,凡人のための凡地は守られるのである。