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変人類学論考

変帯 —変人の居住区—文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

「結局さ、森の中で全裸で生活してます、みたいになったらそれはそれでちょっと別の話だよね」先日、研究所の打ち合わせの際に所長が口にした言葉である。今回はこの言葉が意味することについて、私なりに考えたことをまとめておきたい。

「変さ値」という言葉を用いていることからも分かる通り、我々(変人類学研究所のメンバー)は、無意識に変人をグラデーション(スペクトラムが妥当か)の中のある値域として捉えている。つまり、変人は凡人と変過ぎる人(以下、超変人と呼ぶ)との間に挟まれて、帯状に分布しているのである。この帯状の空間、「変帯」こそ、人を変人たらしめる場である。

凡人は、社会が振りかざす「べき論」に対して、モデルケースを演じることによって成立し、大多数がここに所属する。一方で、超変人は「べき論」からの逸脱が甚だしく、凡人からすれば、意味が分からない、信じられない存在である。この両者に挟まれて、「凡人よりも変で、超変人よりも凡である」状態にあるのが変人である。そして、この変人が成立する領域が「変帯」である。例えば、「TPO に対応した服装で生活するべき」コミュニティを想定する。そのコミュニティでは、凡人はドレスコードと言われればスーツやドレスを身に纏い、普段着には大衆雑誌が形づくった流行を取り入れる。他方、超変人はもはや服を着ない。その狭間で変人は、派手な柄のスーツやドレスを披露したり、無機質な都心のオフィス街を民族衣装で闊歩したりする。

こう考えると、変人は日々、不確定なボリュームの努力を求められていることがわかる。凡人はそのコミュニティが標榜する「べき論」を目印に集まり続けていればよく、なにより「べき論」のセッティング自体がほぼ凡人によってなされる。反対に超変人は逸脱の加減を調整する必要がない。変人は凡人が信仰する「べき論」の影響する範囲を見極め、その範囲の外に身を置くよう意識するのと同時に、背後に超変人との差異を見出さなくてはならない。

さらに、凡人は自分たちの環境にマンネリを感じると変帯に出向いて、自分たちでも取り込めそうな新奇性をもぎ取って帰る。そうすると変人にとってのその新奇性はもはや凡人であることの証拠になってしまい、新たな要素を超変人ほど逸脱しない範囲で模索しなくてはならない。変人は凡人と超変人の狭間で、両者の動向を伺いながら自分たちの居場所を模索し続けなくてはならない。

そもそも,変人はなぜ変人でいようとするのか。これだけ過酷な状況の中で変帯を維持しなくてはならない変人は,どうして変人であることをやめようとしないのだろうか。この問いの答えは恐らく非常にシンプルなもの,自己の実現であったり,幸福の追求であったり,そういった単純で不可欠なものだろう。変人は誰しも根本に自分の生と直結するような動機を持って変帯を形成し,維持する。その変帯がある程度維持され,第二世代ができはじめると,その世代以降の変帯維持のため行為は,意図的な場所取りになる―そう見える―のである。しかし,繰り返すが,第二世代以降が行う意図的な場所取りも,その変帯を作り上げた第一世代と同じ動機―自分の生と直結するような単純で重大な動機―のもとに行われている。

変人とは、非常に繊細で敏感な人格によって成し遂げられる現象なのだろう。人を変人たらしめる変帯は、それ自体、流動的な社会の中で変人たちの弛まぬ努力によって成立している。この社会との駆け引きが楽しくて、積極的に不安定さを求め、変人であり続ける人がいる。その一方で、不安定さを変人であるための代償として受け止めている人にとっては、変人であることは生きづらさと直結する。変人の居住区である変帯が常に抱える不安定さ。この不安定さとどう折り合いをつけるのか、つけているのか。変人を研究するなかで明らかにしていきたい。