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変人類学論考

凡―固/変―動(第3部)文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

固定と動を螺旋状に繰り返す社会

 ここまで,変人について考えてきた。1部では変人類学研究所の「変人類」の3原則を借りて,凡人が変人に変容していくさまを辿った。2部では,凡人と変人を「固定された人間(fixed-man)」と「動いている人間(stirring-man)」とに譬えて二項対立的に論じることで,互いの輪郭を強調することを試みた。最後に,3部ではこの凡人と変人,固定と動が互いに作用しあいながら,相互依存的に関係性を築いている社会について少し触れておきたい。
人間は生まれつき変人である。それぞれにユニークであり,一つとして同じ個体は存在しない。それは,ある人間が生まれてから死ぬまで,生涯にわたって変わらない事実である。しかし,実際に社会を見渡すと,そこは凡人の溢れる凡地と化している。生まれつき変人であった人間は,自己実現のために参入した教育機関に,個性的であることよりも,没個性的であることを強いられる。たいていの場合,教育者たちは没個性的であることを被教育者に押し付けていることに無自覚であるし,むしろ個性を伸長していると錯覚している。何故なら,その教育者たちもまた,その多くが没個性的であることを積極的に全うしてきた優等生だからである(無自覚な教育者たちを責める言説が社会変化を生み出せないのはそういった事情からである)。教育機関から《卒業》したほとんどの変人たちは,晴れて凡地の仲間入りを果たし,凡人としての人生を歩んでいく。
そのなかで,ごく一部の人間が凡庸な価値観,周囲と悉く同じ状態である自分に違和を感じるようになる。そうして1部で確認したようなプロセスを経て,変人としての自分を取り戻すのである。誕生というよりもむしろ再生,復活などの言葉が最適であるわけだが,変人は人間としての本来の姿を獲得し,自己満足な幸福の世界へと駆け上がっていく。
このように凡人と変人を対比して描いた場合の認識の置かれ方としては,《凡人=劣位,変人=優位》といったものが想定できる。もちろん,優劣の尺度を用いて判断せよと言われれば,ある程度そのような結果になることも否定できない。2部で確認したことからも明らかなとおり,マンネリ化した凡地に爽やかな風を吹かせて凡人の心機一転に貢献するのは変人であり,それを功績として讃えるのであれば,変人は凡人よりも優位である。しかし,それは生じた結果に対する一面的な評価判断の宣言に過ぎない。本論で目指していることはあくまで「変人について考える」ことであり,変人を凡人に対して優位であるか劣位であるか見定めることではない。むしろ,凡人と変人の差異を役割の違いのように捉える程度で閉じるのが妥当であると考えているが,こればかりは読み手の価値判断に委ねざるを得ないのが正直なところである。
さて,2部に話題を戻しつつ,考察を深めていく。凡地と凡人が大多数を占める社会は,基本的に《固定》の力学によって安定を保っている。《動》的な変人は蚊帳の外で浮動しており,その拠り所を凡地に求めることは無い。しかし,《固定》的な状態に何かしらの不都合,限界が生じるようになると,凡地は《動》的な変人への接近を試みる。そうして変人の持つダイナミズムに触発される形で凡地の攪拌が実行され,新しい凡地が形づくられる。新しい凡地には,以前よりも堅固な新たな《固定》の力学が働き,安定を保つようになる。この,《以前よりも堅固な新たな固定》は,結局のところまた不都合や限界に苛まれ,次の攪拌を余儀なくされる。つまり,《固定》と《動》は離反と和合を繰り返しながら螺旋状に相互の存在を変化させていくのである。《固定》が存在することによって《動》のダイナミズムは際立ち,圧倒的な《動》が存在することによって《固定》は限界が来るたびに新たな拠り所として《以前よりも堅固な新たな固定》を得られる。両者は相互依存(interdependence)の関係にあり,そのどちらかが欠けてしまっては,もう片方も成立できなくなってしまう。
先に論じた通り,凡人と変人を優劣の尺度で評価する観点については,本論から生じた付帯的な見方の例としてありうる。しかし,凡人と変人,《固定》と《動》の相互依存の関係について考察した今,その見方があまりにも無意味であることは明らかである。すなわち,凡人と変人は共起する存在であり,優劣とは違った強い結びつきによって既に関係を保障されているのである。男性が尊い存在である(男尊)ことが卑しい女性(女卑)の存在によって成立しているのであれば,その場合の男性の尊さは卑しい女性のおかげで保障されているのであり,この構図によって男性性と女性性を描くことがくだらないことであるということは,随分と昔の社会で決着している(現代においては,もはや性を特定すること自体の必然性にすら疑問が投げかけられているが,凡人と変人もいつかそうなるのであろうか)。仮に《人類皆変人》の社会を目指したとしても,ある瞬間,刹那的にその状態が認められつつ(2部でいうところの,変人を囲んで皆でカーニヴァルをしている様子),最終的には新凡人からの新変人の離反が生じるはずである。換言するなら,必ず凡人から変人が離反するからこそ,凡人は次の《固定》を獲得する契機を得られるのであり,凡人が次の《固定》を渇望し獲得する期間(自分中心のカーニヴァルが開催されている期間)があるからこそ,変人は自分の変人としての存在意義を肯定できるのである。凡人は変人を,変人は凡人を,嫌い,求め,切断と接続を繰り返すのである。