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変人類学論考

自称「変人」の違和感文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

やあやあ、我こそは変帯の住人、変人なり

「変人」を研究していると、「私は変人であるから、研究対象にしてくれ」という申し出を受けることがままある。そういった場合、明確かつ完全な定義が難しい「変人」を研究対象としている以上、ひとまず分析をおこなうことにする。具体的には、本人の生育歴を詳細に聞き、そのなかに登場する諸要素を研究所のこれまでの知見と照合していく。変わっている要素、変わらない要素、変えたい要素、大きくはこの三要素を見出していくことで分析が進んでいく。
分析を進めていくと、「私は変人である」と断言する人々には共通点があることに気づく。それは、変わっている要素と変わらない要素が誇張され、変えたい要素は省略される傾向にある、という点だ。三要素はそのすべてを多く有していなければならないわけではなく、その意味で、確かに変えたい要素が省略されたとて「変人でない」と決定することは難しい。しかし、この共通点には直観的な違和感を禁じ得ない。なぜなら、三要素に対して意図的に誇張と省略の加工が施されているからである。「変人である」ことをあざとく作り上げようとしているのだ。このことに気づいてから、「変人が現象である」という大前提の再考を迫られることになった。

変人は現象であり、目的ではない

「変人である」ことを作り上げようとする背景に何があるのか。そもそも変人類学研究所においては、「変人は現象である」という大前提が共有されている。「変人」を個人の要素のみではなく、個人の要素と環境の要素との相互作用によって生じる「現象」として見出す考え方である。この考え方は、「障害」をインペアメント、ディスアビリティ、ハンディキャップの3つのレベルに分類することと類似している。インペアメントとは、身体や精神の器質的特徴を捉える概念で、例えば視力が低下していることなどがそれにあたる。ディスアビリティは、インペアメントがあることによる機能的制限や困難さを捉える概念で、視力が低下していることで遠くのものが見えないことがそれにあたる。ハンディキャップは、ディスアビリティが原因で生じる社会的制約などを捉える概念で、ここまでの例を踏まえると、遠くが見えない人が映画館の最後列に配置されたがゆえに「見えない」状態を強制されてしまっていることがそれにあたる。変人類学研究所の捉える「変人」はディスアビリティやハンディキャップのレベルに対する言及と類似しており、インペアメントのレベルに対する言及ではない。
しかし、「変人である」ことを作り上げようとする場合、いかに「変人」であるかが目的となり、「現象」としての均衡が崩れてしまう。「変人」が「現象」である限り、我々は「変人」に対して干渉不可能である。それを強引に人工的に作り上げようとする行為は、養殖的であり、成果物は自然のそれとはまったく異なる。これこそが、誇張と省略の加工によって生み出された「変人」に対する違和の正体である。さらに言うと、養殖的であることを公言している場合であれば、特に違和は感じない。養殖(以下、養殖変人と呼ぶ)であるにも関わらず、さも天然(以下、天然変人と呼ぶ)であるかのように立ち振る舞う場合に強い拒絶反応が出る。だからこそ、と言うべきか、自然と変人である天然変人は、変人であるかと聞かれたときに、ぽかんとした顔でこちらを見てくる。おそらく何を聞かれているのか分からないのであろう。なぜなら、自分から「変人」を意識することなどなく、意識せずとも「変人」であるからだ。現象として発現する「変人」は、当の本人の意識にすら随伴しない。

社会からの承認を渇望する養殖変人

「変人である」ことを作り上げようとする背景にまだ迫り切れていない。「変人である」ことを作り上げようとする意志によって生み出された養殖変人は、なぜ生み出されなければならなかったのか。この問いに踏み込むうえでの入り口は、「変えたい要素の省略」にあるのではないかと考えている。
養殖変人の発生プロセスにおいては、「変えたい要素」が省略される。定型文を引用したような形式的なやり取りでそれっぽく「変えたい」を発信することはあっても、強い意志を持って取り組むようなことはまずない。というよりも、正確にはまだ「変えたい」と思い切れていないのである。自分以外の何かに注力しようと思えないことには、「変えたい」という意志は強まらない。
逆に言えば、まだ自分のことで精一杯である、とも捉えられる。自分を社会に承認させること、少なくとも存在していることについて否定されないような基礎環境を整えることが最優先にされている。そうせざるを得ないほど、これまでの人生において存在を否定されたり、迫害されたりしてきたという感覚があるのだろう。養殖変人の本当の意欲は社会からの承認にのみ向けられているのかもしれない。
仮にそうだとしたら、養殖変人にとって「変人である」ことを作り上げる行為は、「変人になる」ことと同義で行われているわけではないということになる。もはや「変人」は目的ですらない、ということになる。「変人」は養殖変人たちに、社会からの承認を得るための道具として消費されているのかもしれない。

自己開示の爆発的加速(開示バースト)

脇道に逸れるが、ここまでの流れを踏まえて、ある現象について議論したい。それは、養殖変人が自己開示を行う際に引き起こす爆発的加速(開示バーストと呼ぶことにする)である。
変人類学研究所を訪れる養殖変人は社会からの承認を渇望している。そしてその承認を変人類学研究所(社会のごく一部分)から得るために、いかに「変人である」かを「変わっている要素」と「変わらない要素」の列挙によって力説する。研究所の所員は基本姿勢として受容的な応対をするので、内容の如何によらず養殖変人は包摂され、存在を肯定される(少なくとも否定されることは無い)。そうすると、はじめは遠慮がちに行われていた養殖変人による自己開示が、次第に熱を帯び、ある瞬間から爆発的に勢いを増すのである。それは満員電車のドアが開いて一斉に乗客が溢れ出てくるようなもので、受容的な応対をしていた聞き手側も思わず一瞬怯む(殆ど興ざめに近い)ほどだ。突然始まるこの開示バーストは、大抵の場合、バースト後も周囲が対応を変えずに受容的に応対し続けることによって、一定時間の後に自然と収束する。
そして、天然変人はこの開示バーストをまず起こさない。天然変人の自己開示は必要最低限で済まされ、多少増えたとしても周囲を怯ませたり興ざめさせたりすることは無い。あくまで社会からの要請に従って、要請された程度にのみ行われ、それをすること自体が目的になるようなことが無い。対して考えてみると、養殖変人の開示バーストは、抵抗の大きい回路に短絡が施されて大量の電流が流れる (いわゆるショートの) ような現象である。遡れば、これまでの人生がそれだけ高い抵抗のもとで送られていたとも言える。天然変人と養殖変人とのあいだに生じる抵抗の差は何なのだろうか、何によって生じるのだろうか。この点については、現状、議論できるほどの材料を持ち合わせていない。更なる調査と分析をおこなっていきたい。

養殖変人に魂の救済を

人はみな生まれながらにして「変人」であり、その後、様々な環境との出会いや相互作用によって「凡人」になっていく。変人類学研究所が仮説として持っているこの《「変」→「凡」》という生成変化の過程を、養殖変人は「凡」の側から逆戻りしようとしている。サケやマスは海で育ったのち、その驚くべき嗅覚を頼りに、躰が覚えている匂い(嗅覚物質)を求めて自分の産まれた河川系に戻ってくる。この習性には「母川回帰」という名前がついているが、自分が今いる「凡地」から抜け出して「変人」であろうとする「養殖変人」たちも、自分にとっての「母なる存在」を求めて喘いでいるのかもしれない。自分にとっての「母なる存在」を「凡地」に見いだせなかった者たちが養殖変人になる。だとすれば、その者に必要なのは魂の救済であり、それを承認や受容、肯定や尊重によって実現していく。
養殖変人が承認や受容、肯定や尊重を受けて「母なる存在」を獲得したとき、その姿には何の名前がつくのだろうか。「変人」か、「凡人」か、あるいはまた異なる存在がそこには現れるのかもしれない。千尋にゴミを引き抜かれたオクサレ様は、名のある河の神に姿を戻して意気揚々と去っていった。「変人」を作り上げるために自らの手で躰に塗りたくった「変わっている要素」と「変わらない要素」とが剥がれ落ち、そこには何が残るのだろうか。たとえそれがなんであったとしても、どうか何かが残ってほしい。魂の救済とともに存在ごと消滅するのが養殖変人の末路であっては、あまりにも惨い。

小括

「変人」を自称する者の来訪と、そこに生じる違和感。この二つの事柄を中心に考えを巡らせてきた。
まず、「変人」を自称する者を養殖変人と名付けた。養殖変人は、「変人」の三要素である「変わっている要素」、「変わらない要素」、「変えたい要素」のうち、「変わっている要素」と「変わらない要素」を誇張し、「変えたい要素」を省略する傾向にある。そしてそれは、自分の存在を承認されたいという欲求にもとづいておこなわれていると考えた。つまり、養殖変人は「変人」の概念を道具的に利用して社会からの承認を得ようとしているのである。それゆえ、変人類学研究所が「変人は現象である」と言う場合の「変人」と、養殖変人を理解するうえでの「変人」には、意味の差が生じていたのだ(その意味で「変人は現象である」という前提はまったく侵されていない)。この意味の差が、「変人」を自称する者(養殖変人)の来訪のたびに感じていた違和感であった。違和感の源泉は養殖変人にあったのではなく、現象としての「変人」の概念と養殖変人の在り方との線分上にあったのだ。
そしてもう一つ、そもそもなぜ「変人」を自称する者(養殖変人)が変人類学研究所に来訪するのかについて。来訪の動機には「母なる存在」の欠乏を直観した。養殖変人に必要なものは社会からの承認である。変人類学研究所の所員はその承認を(結果として)無差別に提供している(現状がある)。そのため、養殖変人の「母なる存在」の欠乏した部分に、変人類学研究所が流れ込んでいるのであろう。この現象については、このあとどうなるのかを見届けていく必要がある。つまり、欠乏する「母なる存在」を変人類学研究所によって満たした養殖変人が、どのような生成変化を遂げるのかを見届けるのである。それが「変人」のそれとは大きく異なるものであっても、「凡人」のそれに酷似していたとしても、あるいは第三項的存在であったとしても、個人はその存在自体で尊く、否定されるようなことはあってはならない。
これからも変人類学研究所には養殖変人が来訪するだろう。その養殖変人たちに幸福な人生がもたらされるよう、引き続き考えを深めていきたい。