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変人類学論考

「変」考:「変」の存在と所在に関する試論(後編)文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

後編
「抹殺、或いは無視」

「変である」ことが「そこに存在したまま」背景化する、何故この事象を重要な事象として認識しているのかについて示していきたい。

「変である」状態が「変ではない」状態になることについて、我々はどう捉えることができるだろうか。「変である」何かが、あるきっかけによって「変ではない」状態に移行するとしたら、そのきっかけは「変である」状態を個人レベルで「抹殺」する行為か、環境レベルで「無視」する行為かのどちらかであると捉えられるだろう。

個人レベルで「抹殺」するとは、つまり、「変である」ものが周囲の「変ではないもの」と要素的に同化するということである。例えば、あるテーマパークに遊びに行く場合を考える。普段と変わらぬ服装でテーマパークに到着し、中に入る。すると、周囲の客はみなそのテーマパークのキャラクターがプリントされたTシャツを着ている。そうでなかったとしても、何かキャラクターを模したアイテムを身につけている。帽子であったり、タオルケットであったり、小物入れであったり、それぞれは多様であるが、キャラクター由来のものであるという点で共通している。この状況下でもし、普段と変わらぬ服装の人が「ならば私も」とキャラクター由来の何かを購入して身につけたとしたら、その瞬間に「キャラクター由来のものを何も身につけていない」という「《圧倒的》少数」の要素は消滅することになる。周りとは違う存在であったという事実は、周囲との要素的な同化とともに消えて無くなったのである。

もう一つのきっかけとしてあげた環境レベルで「無視」するとは、「変である」という事実への注視をやめることをさす。つまり、「変である」ことを成立させている要素を、環境側が要素として認識しなくするのである。たとえば自分の所属するグループの中に1人だけ違う要素を持つ者(趣味、身体的特徴等)がいて、グループ外の人から「○○さんだけ□□じゃない?」と指摘されたとき、「言われてみればそうだね」となった経験はないだろうか。このときの「□□だ」という要素こそ、そのグループで「無視」されていた「変である」ための要素であり、それが外的要因によって顕在化した瞬間である。また、「無視」という行為自体はここでは肯定的でも否定的でもない中間的な意味合いの行為である。肯定的か否定的かに分かれるのは、むしろ「無視」によってもたらされた結果のほうである。

「抹殺」と「無視」、どちらも招く結果は同じだが、付随する条件は大きく異なっている。個人レベルで「変である」ことが「抹殺」される場合、「変ではない」状態になってから「変であ」ったことを振り返るのは難しい。故に、「変である」ことを成立させていた要因自体が、周囲の環境等との関係によってどう捉えられていたかを窺い知ることも難しくなる。そうなると、平たく言えば、本当にその要因は「抹殺」する必要があったのかが検証されにくくなってしまうのである。「変である」ことの痕跡が無くなるだけでなく、無くなるべきであったかどうかの検証もできなくなる。文字通り永久に消滅するのである。

一方、環境レベルで「変である」が「無視」される場合、「変である」ための要因は性質として保存され、常に参照可能である。故に、その要因が環境等に晒され続けることになり、環境等との関係についてのデータが蓄積し続けることになる。また、全体的、統一的、画一的、没個性的である状態とは真逆の状態、つまり、個別的、分裂的、個性的である状態が常に成立可能であるのだ。慎重に確認をしていかないと見過ごしてしまうこの状況―個別的、分裂的、個性的である状態が成立しながら「変ではない」状態も成立する状況―は、適当な眼差しをもって捉えることにより、これまでの社会状況では実現できなかった諸状態を実現できる契機となる。しかし、「慎重に確認を」と一言強調せざるを得ないほど、この状況はいとも簡単に見逃されてしまう。それこそ「アナーキーだ」という言説ひとつで吹き飛んでしまうような不思議な状況なのである。それが吹き飛ばされずに実現されたとき、「変である」ことは「そこに存在したまま」背景化するのである。

「変である」ことが「そこに存在したまま」背景化している状態とは、ある集合体において個別的、分裂的、個性的である諸要員が不思議な調和を維持することで、個々の「変である」ことをまったく損なわずに「変ではない」集合体を形成している状態である。つまり、「変である」ことは―背景化こそすれ―生き続けるのである。

真の「変ではない」状態

最後に、「変である」ことが「そこに存在したまま」背景化する世界について少し言及しておきたい。
ある集合体において、「変である」ための諸要因がどれもこれもことごとく「そこに存在したまま」背景化するとする。1つ1つの要因に着目してみれば、誰も彼もが何かしらの「《圧倒的》少数」であるのだ。いくら背景化したとはいえ、もとを辿れば「変である」ことには変わりない。換言すれば、全員が一様に「変である」のである。「変である」という多様さが、一様に全成員に組み込まれているのである。このように「変ではない」状態が「変である」ことの背景化によって立ち上がってくるとき、そこに広がる風景は清潔で簡素な無菌室のような均質化したものでなく、むしろ1ピクセルたりとも同じ部分が存在しないような雑然としたものである。我々の傍に常に可能性として存在し続け、なおかつ忌避されがちだった無政府状態が堂々と君臨するのである。このことからも分かるように、「変ではない」ことは、「変である」ことの(何かしらの形での)消滅でのみ引き起こるのではない。「変である」ことそれ自体が氾濫することにより、主軸(多数派などと言われるもの)を取るのが難しくなり、「変である」か「変ではない」かどうかを判断すること自体、無意味な行為として棄却されるのである。「変」を前提として存在した「である」か「ではないか」の二項対立的構図は、それ自体が終焉を迎える。

「変である」ことが長命を獲得したことによって、漸く「変である」か「変ではない」かの二項対立が成立するようになったことは既に指摘した。しかし、「変である」ことが背景化することによって「変ではない」状態を生じさせるとき、べき論的に二項対立の構図に持っていこうとしていたこと自体、する必要のないことになる。そうなった世界で、我々は「変」に替わるコードを持ち得ない。「変」を言語レベルで認識できなくなる―厳密に言えば、認識はできても即座に無意味なものとして捨てる―のである。言語が人間の認識を規定したり文化を構成したりする以上、この、「変」を言語レベルで描画できなくなる(認識できなくなる)ことは、「変」自体の消滅を意味する。
こうして突き詰めていけば、「変」という概念自体、個々人の認識によって立ち現れ続けるのである。だからこそ、「変である」ことが溢れかえって背景化することによって、「変」は固定不可能な撹乱状態に引き戻され、次第に個々人の認識の外に葬り去られることも可能である。真の「変ではない」状態とは、こうして「変」自体認識できなくなることによって成立するのである。

前編「変である、という現象」はこちらから(リンク)