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変人類学論考

「変」考:「変」の存在と所在に関する試論(前編)文責:主任研究員 小林拓哉(NPO法人東京学芸大こども未来研究所教育支援フェロー)

前編
「変である、という現象」

「変である」とはどんな現象なのだろう。朝、通勤で満員電車に乗る。皆が一様にスマホを操作する中で、一人、落ち着きなく周りを見回している。

「変である」とはどんな現象なのだろう。朝礼で上司が話し始める。部下は皆、上司のほうを見ている。よく見ると、一人だけ片耳にイヤホンを付けたままである。

「変である」とはどんな現象なのだろう。昼食、それぞれ作ってきたり買ってきたりしたものを広げる。一人、バナナだけの人がいる。完全食だから、本人は笑ってそう説明した。

「変である」とはどんな現象なのだろう。「ちがう」ということかもしれない。「同じでない」ことかもしれない。仮にこの2つの言い換えをもとに考える。皆がスマホを操作しているのに、一人だけ周りを見回していたら、見回している人はスマホを操作している人から見れば「ちがう」存在である。なおかつ「同じでない」。逆も言えるだろうか。スマホを操作している人は見回している人から見れば「ちがう」存在であるだろう。そして、「同じでない」ことも了解できる。

しかし、スマホを操作している人「たち」から見回している人を切り出すのとその逆とでは、なにか性質的な差があるように感じられる。さらに言えば、見回している人がスマホを操作している人「たち」を「ちがう」と言うことに、言語表面的な不都合は感じないものの、なにか違和を感じる。

「変である」という表現に立ち戻る。先に示した3つの例に共通していることを考えてみたい。移動中の出来事、仕事でのワンシーン、昼食。場所や行為における共通項は見出しにくい。時間も、「変である」ことが生じやすい時間帯などを想定するのはナンセンスだろう。このようにそれぞれの例の具体的な差異を捨象していくと、シンプルな共通項を抽出することができる。それは、構造である。つまり、「変である」ということが、そうでないことに比べて圧倒的に少数になるという構造である。過半数を割っているなどの生温いものではなく、「圧倒的に」少数なのである。

「変である」ということは、「《圧倒的》少数」である状態を前提にしている。この事実を、視点を変えて捉えると、「変である」ことが内容的な条件よりも構造的な条件に強く影響されて生じていることに気付ける。片耳にイヤホンをつけていること自体(内容的)が「変である」というより、その人が周囲との比較のなかで「《圧倒的》少数」として浮き上がること(構造的)によって「変である」ことが成立するのだ。
さらに一歩進んで考えてみると、「《圧倒的》少数」が「変である」ことを成立させている事実は、たとえその場が1対1の関係でも成立する。「バナナ」の例を縮小して考えてみたい。2人で昼食をとることになったのだが、自分が弁当を広げているのに対して、相手がバナナを取り出した。思わず聞く、「え、バナナ?」。それに対して相手は何かしらの返答をする。この場合、「え、バナナ?」という発言が「変である」ことの到来を示している。しかし、この場合の構造は弁当対バナナ、1対1である。弁当から見てバナナが「変である」ならば、バナナから見て弁当も「変である」。そうであるにも関わらず、バナナ側が自分の「変である」ことを容認するかのように言い訳を言ったりするのである。それはなぜか。昼に弁当を食べるほうが「一般」的だからである。普通そうだよね、などという場合がそれである。つまり、その場は1対1の構造を保てていても、昼食という現象には既に「弁当などが一般的である」という前提が備わっているのである。そして、「一般」的であればあるほど、その場には見えずとも多数の仲間を引き連れているのである。ゆえに、バナナはやはり「《圧倒的》少数」なのである。こういう場合の「《圧倒的》少数」は、「潜在型」と呼べるかもしれない。他方、満員電車の例や朝礼の例などは「顕在型」と呼べる。

さて、「顕在型」と「潜在型」の違いこそあれ、「《圧倒的》少数」という構造が「変である」ことを生じさせていることについて確認をした。もう少し「変である」ということにこだわっていきたい。先に示した満員電車の例と朝礼の例、この2例がバナナの例と微妙な違いを有していることに注目する。前の2例と「バナナ」の違いは何だろうか。もしかしたら、人によっては「昼にバナナはそんなに気にならない」と言うかもしれない。
この状況に対して想定できるのは次の2つの可能性である。1つは、そもそも昼にバナナを食べること自体の「特殊性が消滅しつつある」ということである。近年の昼食事情を踏まえれば、「バナナ」を食べていてもそれほど「変である」とは思わないかもしれない、ということである。この「特殊性が消滅する」という現象は「馴化」と「撹乱」の2つのプロセスによって引き起こされる。すなわち、昼食がバナナだけの人を目にすることに馴れるか(馴化)、もはや皆バラバラの食事(バナナがいればチョコレートもいて、ヨーグルトもいる)をとるか(撹乱)、である。

もう1つの可能性は、「嫌悪感がない」ということである。少々大げさな表現ではあるが、バナナの例は満員電車の例や朝礼の例よりも「嫌悪感がない」。満員電車で周りを見回している人に対しては、もしかすると「あの人ちょっと不審だな」と思うかもしれない。朝礼中に片耳イヤホンなんて、話している上司が見つけたらどうなることやら、と思うかもしれない。何かしらの「嫌悪感」が前者の2例には表出しうる。しかし、バナナの例はどうだろうか。余程のことがなければ「嫌悪感」までは到達しないだろう。もちろん、この「嫌悪感」の有無については程度問題であり、なおかつ個人の感覚に基づく。ゆえに一概にこうだと言い切るのは暴力的だが、前者の2例とバナナの例の微妙な差異についてはある程度説明がつくだろう。

「特殊性の消滅」や「嫌悪感の無さ」、これらが認められると「変である」ことがすうっと背景化されていくのである。ここまでの考察を踏まえるなら、「非対称性」や「《圧倒的》少数」といった、「変である」ことを支持する構造的な事実が、そこに存在したまま背景化されるのである(「特殊性の消滅」が「撹乱」において生じた際も例外ではない)。この、「そこに存在したまま」という状態が、「変である」ということを容認していくうえでは重要になる。
 ここまで「変である」ということについて、それがどういったことであるのかを考えてきた。「《圧倒的》少数」によって導かれた「非対称性」が「変である」ことを下支えする要素となり、「《圧倒的》少数」であるという状況は顕在している場合と潜在している場合とで分けられた。また、「変である」という状態は、「特殊性の消滅」や「嫌悪感の無さ」を引き金に「そこに存在したまま」背景化するのである。

後編「抹殺、或いは無視」はこちらから