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鶴見俊輔『限界芸術論』

「すべての芸術家が特別な人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである」

しょっぱなから謎の引用ですみません(笑)
この一節は、『限界芸術論』で、クームラズワミという人が言った言葉として紹介されています(p16)。
意味深な導入に驚かれたかもしれませんが、ちょっと考えてみてください!
芸術って、どんなものでも、見る側が見方を磨けば芸術として見れるって側面があるわけです。『限界芸術論』の著者・鶴見俊輔さんはそこを具体的な事例から考えていて、例えば修学旅行ですら芸術に通じるってことを書いているんですね。
ええっ、修学旅行が芸術に通じる??? 、、、これだけだと、さらに意味不明ですよね(笑)。ちゃんと後で説明します!

ということで、「変人類学文庫」記念すべき1冊目は、そんな『限界芸術論』をご紹介していきたいと思います。
まず前提として、タイトルにある「限界芸術」ってなんぞや?ってところから説明いたしましょう。

鶴見さんは芸術を3つの種類に分けています。ざっくり言うと、こんな感じです。
・純粋芸術:専門家が作り、専門的享受者が楽しむ
・大衆芸術:専門家が作り、非専門的享受者が楽しむ
・限界芸術:非専門家が作り、非専門的享受者が楽しむ

細かい定義については実際の本を読んでみて欲しいのですが、たとえばクラシック音楽で、熟練した奏者が弾いて、音楽知識のある鑑賞者が聴くようなケースは、この区分だと純粋芸術と言えますね。
あるいはたとえばハリウッド映画は、すごいカメラマンとかCGクリエイターとかが沢山参加して作られているわけですが、お客さんはそんなことを何も考えずに楽しめる。これは大衆芸術と言えます。
じゃあ限界芸術って何よって話ですが、これは今で言うと、ニコニコ動画にある自主制作動画みたいなものを想像すると分かりやすいと思います。たとえば僕はむかし、大学のサークルで変な自主制作映画を撮ってニコニコ動画やYouTubeに投稿していたんですが、そういうのが限界芸術ってことですね(笑)

もちろん、鶴見さんがこの本を書いた時代には、ニコニコ動画なんてありません! なので、鶴見さんは限界芸術の例として、鼻唄とか、古い茶道の器とかを挙げています。茶道のすごい器のなかには、作られた時は大量生産のガラクタだったものなんかもあるそうで、鶴見さんはこう書いています。
「これを用いることにきめたという見る眼、これを見事な仕方で用いてきたという使用の歴史が、この一片のがらくたを、大名物にしたてた」(p43)。
うひょー、かっこいー。さらに鶴見さんは「身振りや笑い」なんてものも、限界芸術に入り得るものだと言います。なんでも、江戸時代には実際、身振りや笑いを芸術だとする考え方もあったとか。そう、何を芸術とするかってのは、ようするに見方次第なんですね。

そして、この限界芸術としてのものの見方は、純粋芸術や大衆芸術を作る上で大事になるのだ、と鶴見さんは言います。そこで例に出されるのが、宮沢賢治さんです。宮沢さんは学校の先生をしていたのですが、なんと『注文の多い料理店』は、学校劇のために書いた脚本から生まれていたというのです。役者になった生徒さんの演劇的可能性から印象を得ていたんですね。そんな感じで、修学旅行のプログラムの立案から雑談まで人間関係のドラマが、宮沢さんにとっての芸術だったとも言えるのです。

ここでようやく修学旅行がでてきましたね(笑) え? でもここまで、「変人」研究に何にも関係ないじゃないかって?
はい、、、実は、この本では変人については全然触れられてないんです。
じゃあ、なんでこの本を取り上げたんだよ!!! という皆さまの声が聞こえる気がしますが、ここからです!(笑)

変人にも、色んな種類があると思うんですね。
変人って、プロとしての変人って在り方もあるって思いませんか?
例えば研究者や芸術家って一個のことを突き詰めていくから、純粋芸術みたいなものに近い。「純粋変人」ですね(笑)
一方で、お笑い芸人さんって、キャラを立てないと売れない側面もあるから、個性を積極的にアピールしていって、どんどん変人度を増していくかもしれない。これは大衆芸術ならぬ、「大衆変人」と言えるかもしれません。
そしてこれが一番言いたいことなんですが、世の中の大多数は「普通の変人」なのです。ただ毎日を生きるなかで、ひょんなときに「変人」へと変化してしまう。これが限界芸術に対応する「限界変人」です。ってか、そもそも「限界」ってなんだっつー話もありますが、この「限界」の意味は「マージナル」つまり境界、端っこです。変人か変人じゃないか分からんくらいの境界領域! 純粋変人や大衆変人の生きる業界では、「変人」であることがプラスに働くことが多いわけですが、この普通の変人だと、「変人」だと思われることが得にならないケースが多いと思います。そこには仕事上の利点はなく、むしろ損なこともあるでしょう。

ってことで、新しい変人の見方が一つ、できました! じゃあ、この見方はどんなことに通じるんでしょうか?
過去の変人考察を見ていると、けっこう変人を「マイナス」か「プラス」のどっちかに分類しすぎだと思うことがあります。「狂人」か「天才」か。「被差別者」か「勇者」か。「マイノリティ」か「イノベーター」か。もちろん、分類して何かを考えるのは大事なんですが、「変人」という言葉に正や負の意味を付加せず、もっと「変人」をフラットに捉えることも大事だと思うんですね。
それに、そういう分類が先に立つせいで、「限界変人」のような単なる「普通の変人」を考察する視点はあまりない。
なんていうか、社会の役に立つ「変」だけじゃなくてもいいと思うんですよ。ただ、「変」であることをその通りに受け止める。そういうことが大事かなぁ、と。
というかむしろね、どんな人でも、「自分が変なことしてるな」って瞬間を感じたことがない人って、いないと思う。これを読んでいるあなたも、例えば自分の好きな趣味に没頭してるときとか、他の人から見たら理解できないだろうなってことを、絶対してるはずです。こういうときって、それ自体が目的になってて、理由のない衝動に突き動かされてきたりしませんか? 誰もいない道で小声で歌ってたり、鏡の前でにやけてみたり。こういうのがもし他の人に見られてたら、絶対変人だと思われますよ。

さあ、ここで最初に挙げた引用の出番です。思い出してみてください。
「すべての芸術家が特別な人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである」
この芸術家ってのを、変人に読み替えると、こうなります。
「すべての変人が特別な人間なのではない。それぞれの人間が特別の変人なのである」

これが、「限界芸術論」ならぬ、「限界変人論」です(笑)
何を変人とするかってのは、あなたの見方次第。
普遍的に変人を定義するなんて無理なんです。さしあたって、周囲の環境に共有された思い込みと、個性の持つ主観とのズレから生じる虚像、みたいに何となく定義しておいてもいいですが、結局、それは視点を変えれば変わってしまうくらいのものだってことは、今後の「変人類学文庫」の大前提ってことにしておきたいと思います。

つまり、「変人」は「現象」。
固まった類型分類の一ではなく、内的要因と外的要因の相互作用から生まれる蜃気楼のようなものです。

って、、、うーむ、一気に抽象的になりすぎましたね。。。
いきなりこんな怒涛の抽象論を言われたって具体的に想像しにくいと思うので、ちょっとフィクションを経由してみましょうか。
ということで、次回、変人類学文庫2冊目・村田沙耶香『コンビニ人間』、ご期待下さい!

(今回取り上げた本 鶴見俊輔『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999年)

文責:宮本道人